真の大根

 先日、雪の安蔵寺山に登った後、ついでに島根の墓のある山に寄るために150km車を走らせた。日の暮れる前に山に寄って杉を間引く予定だったが、日が暮れ始めたので山に寄るのは中止し、いとこの家に寄って帰ることにした。ここの叔母が一昨年の3月に亡くなり、そのショックの影響もあってか、一週間後に母が脱水症状で入院中の病院で低血糖脳症で意識不明となった。

 叔母の葬式では、会葬者が導師と共に正信偈を唱えているのに感心して、それから私も朝晩お勤めをするようになった。

 いとこには、お土産に酒を一升持参した。寄ったのが夕食時だったので30分程度話をして引き上げた。田舎なので慌てて土産を準備してくれたのだが、自分たちのために買っていたと思われるリンゴと酒と畑から引き抜いた大根をもらった。

 翌朝、大根はまず摩り下ろして、醤油を垂らして、ご飯に載せて食べた。非常に水分が多く、甘い。摩り下ろした固形分はご飯に載せられるが、大量に残った水分はご飯に載せられないので、そのまま飲んだ。醤油しか入れていないのに、まるで出汁でも入れたように甘く、旨味があふれている。まるでスープのよう。渋み、苦み、灰汁は全くない。こんな大根は初めて食べた。

 翌日の夕食に妻がその大根を煮物にした。繊維質を感じることなく、口の中でホクッと噛むと大根自身が持っていた旨味があふれ出てくる。これはただのダイコンではない。正に感動の世界。これ程うまい大根は、どうやって食べるべきか。私は時々おでんを作るが、その作り方はおでんの作り方にも紹介している。先日、妻がおでんの作り方を教えてくれというので、10:1:1の割合を教えていたが、数日後の夕食に大根はおでんとなって登場した。大根が美味いだけでなく、汁全体が今までになく美味しい。人生56年生きてきて、食べ物で感動したことは2〜3回しかないが、この大根には本当に感動した。

 どうやって作ったのか電話で聞いてみたが、病気に強い種類の種を買ってきて植えたとのことであまり手は掛けてないらしい。こんなに旨い大根を毎日食べられる生活がうらやましい。現代生活は似非の世界だと思う。大根というものは店で買うことができるが、店の大根は、大根の形をした似非大根ではないか。まともな大根1本現在では手に入れることが難しいことは既におでんの作り方にも書いた。店に売っている大根の不味さはひどい。あんな不味い大根を平気で売る農家や店とは一体何なのだ。

 魚は体に良いからと子供に勧めるが、子どもはどんどん魚嫌いになっていった。自分自身もスーパーで売っている魚には美味さを感じることは実際ほとんどない。ダイエーもハローデイも西鉄もどこも一緒。私自身買い物をするし、時には夕食を作るから魚、特に刺身の不味さはよく知っている。ところが最近、妻が小さな魚屋から刺身を買ってくるようになった。この刺身は確かに旨さが全く違う。格段に旨い。本物の魚だと思う。スーパーは、パックに入って、一見衛生的でおいしそうに見えるが、本物の食材はほとんど存在しないと私は思う。

 今回、いとこの家で作られた大根を食べて、生まれて初めて大根の旨さを知った。人生56年間、私は大根の形をした似非大根を食べていたのだと思う。私は生産者である農家や店に騙されていたのだと思う。豊かだという日本だが似非ものばかりに囲まれたこの状態のどこが豊かなんだろうか。

 社会もそうだと思う。金持ちは努力したから金持ちになったのだから偉い。貧乏人は努力しなかったのだから貧乏人で当たり前。こういうことを政治家が公言し、実際にホームレスを犬猫のように屋外に放置することを容認する日本人のどこに良心があるのか。彼らは人間の形をした餓鬼ではないのか。似非人間だと思う。

 人生56年にして真の大根に巡り合うことができた。私は真の人間には既に出会っているのだろうか?

(2012年1月22日 記)

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